時代の変化に追いつきたいなら「常識」を疑うべき

時代の変化に追いつきたいなら「常識」を疑うべき

※これは2018年8月31日の記事です。

本日は、世界の学校教育の話題をきっかけに、私が改めて感じた「時代の変化」についてお伝えしています。

普段、あまり意識することのない日本以外の学校教育について、目を向けてみると、日本との違いに驚く点がたくさんあります。

そうした違いがあるのは、決して各国の国柄だけが理由ではありません。

今回のような、普段と違った角度から世界と日本を比較することで、投資家や経営者としても見落としてはいけない注目点が見つけられるものです。

そんな教育事情から俯瞰してみる世界と日本について、私なりに感じた内容をお話していますので、ぜひ最後までご覧になってください。

日本とこんなに違う! オーストラリアの教育事情

以前もお伝えしましたが、私の息子が現在、オーストラリアの語学学校に通っています。

その影響もあってか、実は次男も将来、オーストラリアの高校への進学を希望している状況なんです。

そうした理由もあって、最近私もオーストラリアの教育事情について注目する機会が多いのですが、これが驚くほど日本と違った環境なんです。

たとえばオーストラリアでは小学校からiPadを導入しており、さらに中学校では各自ノートパソコンを持つことが当たり前となっています。

教科書やノートをイチイチ持ち歩くことなく、生徒は席についたらパソコンを起動して授業を受けるのです。

ノートに正しい書き順で、綺麗に書くことから教わる日本と比較すると、そんな授業スタイルまで異なるオーストラリアには驚いてしまいますよね。

オーストラリアの方々は「社会に出たらパソコンを使えることが当たり前なのだから、早いうちから良いもの、役に立つものを使えるようにしていこう」という考え方のもと、このようなスタイルを確立しているようです。

こうした考え方は、パソコンの導入だけに留まりません。

たとえば数学について取り上げてみても、日本とは考え方がまるで違います。

日本の学校では公式を暗記するところから始まりますが、オーストラリアでは、なんとテストのときに使用する公式を公開しているばかりか、計算機の持ち込みも許可されているというのです。

数学において大切なことは「いくら暗記できたか」ではなく、「その法則、公式をどのように使うか」「どのように問題に取り組むか」といったことだとオーストラリアでは考えられているからこそ、このような違いが生まれているんですね。

授業内容だけでなく、通知表の評価基準も異なってきますから、そうした点をひとつずつ見比べてみるととても興味深いものになっています。

このように、諸外国で同じ科目を学んでいても、そこに求めること、その評価基準などが異なるために、テスト内容や授業スタイルが違ってくるのですね。

個性や関心事を伸ばす「時代」の流れ

ここまで、日本とオーストラリアの教育事情について比較していますが、他にもいくつも取り上げられるほど、まだまだ多くの違いが見つけられます。

毎日遅くまで机に向かって、放課後も休日も受験勉強に追われる学生時代を過ごした方にとっては、特にその違いに目を見開いたことでしょう。

オーストラリアの大学は入学試験がなく、希望すればほとんど入学が可能だという違いもありますので、国によってここまで異なるのかと驚くばかりですよね。

「誰でも入学できるなら、その学力レベルはどうなの?」と思われるかもしれませんが、実はオーストラリアの大学は、世界のトップランキングにたびたび登場するほどレベルが高いのです。

むしろ日本の大学は、そうしたランキングにほとんど登場しません。

この差は一体、どこにあるのでしょうか?

その答えは「昔ながらの考え方に囚われすぎている」ところにあると私は思います。

「こうでなければならない」という日本の固い教育方針に縛られすぎた結果、現代の最先端から外れてしまっているのではないでしょうか。

あなたも学生時代に「この勉強は社会に出て、本当に役立つのだろうか」と感じたことがありませんか?

一方でオーストラリアの子どもたちは、中学・高校で学んだことが、社会に出てダイレクトに役立つと感じている割合が高いそうです。

「社会に出て役立つ」と感じさせるのは、先ほど挙げたような例だけではありません。

日本では全生徒の必修科目がほとんどを占めるカリキュラムですが、オーストラリアの子どもたちは、自分のやりたい教科を選択しやすい制度となっています。

また、その選択肢も多種多様で、高校から会社経営学や航空学などを学ぶ機会が与えられ、中にはこうした選択科目を50種類以上用意している学校もあるそうです。

これもまた、先ほどお伝えしたように「早いうちから良いもの、役に立つものを取り入れる」という、オーストラリア人の考えに基づいたものなんですね。

運動についても同様です。

特に、日本では学校の部活動で好きなスポーツに磨きをかけていきますが、この「部活動」を取り入れている国は珍しいということをご存知でしたか?

部活動がいじめの温床になっているという話もありますし、厳しい上下関係や、苦しい経験をした思い出のある方もいるのではないでしょうか。

一方、海外では、スポーツをやりたい子だけが希望して、専門のコーチがついたスポーツクラブに所属します。

スポーツも勉強も、その人の興味や得意なことから自由に選択できるため、それらの得意・不得意があることが当たり前のように許容されています。

そうした要素によって周りから悪評を付けられるということがないんですね。

日本の教育事情も、時代にあわせて変化していかなければ、さらに「時代」に取り残されてしまうかもしれません。

変わり続ける時代に取り残されないために

思えば、私が高校を卒業する頃、コンピューターを学びたいという人は周りから「なにを言っているんだ」「もっとアカデミックな学問を学ぶべきだ」と言われていたものですが、それも4~5年が経過したらコンピューターを扱えることが当たり前の時代となっていました。

むしろ現代なら、就職面接などで「どんなプログラミングの言語が使えるか」といった、より深い経験や知識を求められますよね。

それなのに、未だに日本の教育現場はほとんど変化をしていません。

そんな現代において、今、時代の変化の節目にあるもののひとつが「ゲーム」だと思います。

今の若い子たちはゲームをたくさんやっていますが、それに対して学校や親などは、否定的な見方がとても強いですよね。

しかし、ゲームに夢中だった若者たちが社会に出てどうなっているかといえば、意外と社会の第一線で活躍しているのが現状です。

すでに、欧米ではそのことに気づいていて、アメリカでは対戦型ゲームの強い子を入学させるような大学の入試スタイルも始まっています。

数年後、日本でも就職面接で「どんなゲームをしてきましたか?」なんて質問される時代がやってきてもおかしくありません。

しかし、今の日本の教育事情が変わらなければ、刻々と変化し続ける社会との乖離は広がるばかりでしょう。

まずは、日本教育を始めとする「常識」が、絶対のものであるという認識を改めなければなりません。

その上で、俯瞰した目線から正しい情報を手に入れることが大切です。

これは投資についても同じことがいえます。

投資の勉強は日本の学校で教えてもらうことがありませんが、むしろ、投資にマイナスイメージを持っている方もいるのが日本の実情ですが、これまでもお伝えしているとおり、投資は日本人にとって重要なスキルとなり得るものなのです。

本日は教育という視点から世界と日本を比較しましたが、ぜひ、投資の重要性についても、ここで改めて意識してみてほしいと思います。

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